小説のようなものが書きたくて、かつて書いたものです。2005年ぐらいに。
歌詞のような明るさと言葉の組み合わせ。きらめきがほしかったし、まあ体現できてるかな。
この文章を僕は自分で気に入っています。
犬の遠くには
犬の遠くにはいつもにもまして眩しく街ビルの群れが立ち並んでいました。都会の犬は大体そうです。地上40センチメートルの高さから見上げた夜の東京は、欲望にきらきらとうずまいていて、犬はこれを長いまつげで見つめながら、うなずき、「欲望ってきらめいているんだな。」と自己解釈していました。たしかに、TVを見ても友人を見ても欲望が強い人ほどイルミネーションを、青色発光ダイオードのように放っていて、まぶしかったのです。しかし、沖縄に来てからというもの、仕方なく、犬は暗くて高いこの丘で、毎晩のようにLEDの点滅によだれを垂らしていました。アスファルトの輝き具合もまた絶妙でした。空腹の絶頂で急いで丘から道路へとおりてゆき、20時半のアスファルトに腹這いになります。すると、昼間ためこんだ熱を放射しながら、アスファルトはきらめきだします。地上3?の景色では空気の傾きがそのまま全身にも影響を及ぼすので、空腹の極みからおこる眩暈とアスファルトからの赤外線放射のきらめきで犬はわけもわからなくなります。ハイデガーのいわゆる現存在です。すぐ近くをとおる高校生たちの下校集団の声が犬には微かにきついのですが、酒による酩酊があらゆる刺激を快感へと転化するように、空腹による眩暈はあらゆる思考を日常とは異なる次元へと誘うものです。犬は3回耳をふせて、その鼻を西の方角へ向けました。ソフトクリームをなめるにおいがするので、きっとあの高校生らに違いないです。だが不意に、犬の頭上で高校二年生と思われる女生徒の声がしました。「きゃー、犬が寝てるよ。こんな道路で!」と言って、彼女は彼女の友達をそこに残したまま、不意に走り出して行きました。彼女の哲学的なうねりは20時半の街なみを切り裂いて乙女ロジーを展開してゆきます。
犬がいた!
犬が!
ねっころがって反射してた!!
得意げな先生の顔を思い出した。
つっつき合って
友達ぶっても
金魚は 海を出て
あこがれとなるだろう
経験的 先験アプリオリな 卒業のさみしさを
たどたどしく 読み上げる ボク。
JUST CONCIEVE ME
きみ我をはらめ
ヒップホップよ飛散してよ。今、私という少女の塊は実践と解釈を共時的にはらみながら沖縄社会を切り抜けてゆくのでした。この沖縄において焦土戦は五十年と二十年の歳月をかけてさとうきび畑をゆらせ、その恵みは、森山良子の収入へと変わっていきます。午後8時半沖縄の天井という首里の街なみは右に左に夕餉の灯をほうぼうにぴかり、ただ、何の衝動にも駆られない純粋な運動体として私はこのアスファルトの摩擦を負の滑り方で疾く走り青春赤夏を生き抜けていきます。ガソリンスタンドはフィラメントを酸素のないところで燃やすから、切っ先が鮮やかにとぎれ、そこに現せない不純と瞑想はわけのわからない高校生の発情期を抑圧してゆくのでした。渋谷の雑踏を歩きたい私たちは沖縄のコンクリートのうちっぱなしのあの私の高校の弟の机の上で十七文字の俳句などをつくりしかしながら友人とそれを無視しあうのでした。
一般に、十七才の私たちの生命は十七文字となぞらえられることはありません。
「木苺よ 寮よ 傷をもたない僕の青春よ
さようなら
きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ
二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
今こそ時 僕は僕の季節の入り口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した」
(中断)
*最後は寺山修司の引用。